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トマス・クック (初代レスター伯爵) : ウィキペディア日本語版
トマス・クック (初代レスター伯爵)

初代レスター伯爵トマス・クック(、1754年5月6日 - 1842年6月30日、ノーフォークのクックホウカムのクックとも呼ばれる〔BBC – History – British History in depth: Agricultural Revolution in England 1500 – 1850 Accessed 17 July 2013.〕〔Coke の発音についてはw:Holkham Hall Note 2 に「Cook](クック)だとされている〕)は、イギリス政治家および農業改革者である。父はダービー選出庶民院議員だったウェンマン・クック、母はエリザベスの子として生まれ、イートン・カレッジなど幾つかの学校で教育を受け、その後ヨーロッパへのグランドツアーを行った。イギリスに戻って結婚した後で、父が死亡し、ノーフォーク荘園 120 km2 (3万エーカー) を相続した。1776年、ノーフォーク選出の庶民院議員となり、後に外務大臣になったチャールズ・ジェームズ・フォックスと親友になり、アメリカ独立戦争のときは、イートン校時代の級友であるウィリアム・ウィンダム (1750-1810) (英語版) と共にアメリカの植民地人を支持した。1784年の総選挙ではフォックスの支持者達と共に庶民院議員から落選し、ノーフォークに戻って、農業、狩猟に勤しみ、先祖伝来の邸宅であるホウカムホールの維持と拡張を行った。
クックは1790年の選挙で庶民院議員に戻り、1832年まで議員職を続けた。主に穀物法など地元の利益に繋がる問題に関して発言した。第2に注力したのは市民の自由の問題であり、ピータールーの虐殺や類似した事件に対する政府の対応を糾弾した。「イングランドの最も偉大な下院議員」と呼ばれ〔、1832年大改革法の成立を引退の契機として選び、その後の1837年7月にレスター伯爵に叙された。クックは短期間患った後の1842年6月30日に死亡し、伯爵家は息子のトマス (1822-1909) (英語版) が継いだ。クックの大きな遺産は農業改革者としてのものであり、政治家としてのものではない。昔からその荘園の農作に改革を行ったことを通じて、イギリス農業革命の火付け役になったとされてきた。しかし、後の歴史家達はこれを疑問とし、クックに帰されるとされる発展は他の者の業績だとするのがふさわしいと言っている。それでもクックは「ノーフォーク農業の真の英雄」と今でも表現されている〔。
== 生い立ちと教育 ==
クックは1754年5月6日にロンドンで生まれた。父はウェンマン・クック (1717-1776) (英語版) 、母はエリザベスだった。クック家は当初ノーフォークの出身で、ダービーシャーの土地所有者の家の出であり、父はダービーを代表する庶民院議員2人のうちの1人となった。クック自身は裕福な荘園を所有する家庭に生まれた。幼時の記憶に残る光景の1つは、「窓のところに連れていかれて、キツネが追い詰められ、猟犬に殺されているのを見ていた」というものである。クックの父ウェンマンについてはあまり知られていないが、「仲間が少なく、世界から離れて暮らした。その習慣は郷紳のものであり、心を農業に傾け、外でのスポーツなどに病みつきになることもなく、読書に多くの時間を使った。心にしっかりと抱く原理は古いホイッグ党のものであり、気質柔らかく作法は穏やかであり、友人には愛された」というシャイな人物とされている〔Martins (2009) p. 10.〕。一家の資産状況は、クックが5歳の時に、叔父の初代レスター伯爵トマス・クック(1697-1759、同名、レスター伯爵としては第5の創設)(英語版) が死んだときに著しく改善された。叔父の死因は明らかでないが、決闘によった可能性がある。叔父の妻のマーガレットが死ねば、ウェンマンが「パッラーディオ建築の傑作」ホウカムホールを含め、ノーフォークのかなりの資産を相続することになった。マーガレットは一家の他の者との付き合いを慎重に避けており、ウェンマンが荘園を引き継げないように、単純に長生きすると誓っていた〔Martins (2009) p. 11.〕。
クックの幼時についてほとんど記録が残っていないが、ダービーシャーのロングフォードで教育を受けたあとで、フランスからの避難民が経営するワンズワースの学校に入った。1765年、イートン・カレッジに送られ、そこでその後の人生の親友となるウィリアム・ウィンダムと知り合った。クックはイートンで明らかに幸福であり、屋外のスポーツでも優秀だった。ある場合には彼が殺した70羽のシギがその部屋で見つかり、別の時にはウィンザー・パークキジを撃ったことで罰を受けるところを辛うじて免れた。学業の方には特に興味を抱かなかったが、1771年にイートンを離れる時までに、密接な友人の輪と土地所有者階級とのコネを作り、将来の荘園を扱う実際的技量を身に付けた〔Martins (2009) p. 13.〕。学校を出た後でヨーロッパへグランドツアーを行ったが、その旅費は父と大叔母が手配した(大叔母は大学を悪の巣窟と見ており、大学に行かないことと引き換えにクックに500ポンドを提供した)〔Martins (2009) p. 14.〕。クックはフランスとイタリアを訪れ、「若僭王」チャールズ・エドワード・ステュアートルイーゼ・ツー・シュトルベルク=ゲーデルンの結婚を目撃した。ルイーゼは52歳のアルコール依存症の夫よりも明らかに同じ世代であるイングランド人クックを恋した〔Martins (2009) p. 22.〕。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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